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メートル原器




2011.12.31

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2011年最初の日記には、はっぴいえんどの「春よ来い」を引用したが
お雑煮食べて、こたつで歌留多みたいないい正月を過ごしていた
でも引用した甲斐あってか、今年のお正月のがどこで間違えたのか的になった
カレンダーの升目は同じ面積で、数字は同じ間隙で並び、定規のメモリ、メルカトル図法
そうしてやってきた2012年とやらは、なんだか胡散臭いかんじだった
まあまあ大きい地震が起きて、フジテレビの生放送が生じゃないことが暴かれた
オウムの平田容疑者が(松本を死刑にさせないために?)出頭した

どこで間違えた的なお正月はわたしの中だけじゃないんだろうか
ピングドラムの林檎がまわりつづけてる感はある












忘却について

河瀬直美の「沙羅双樹」にでてくる言葉
神隠しにあった双子の弟がいる家族
残された家族の間で交わされる言葉
これをずっと虜にしている

忘れてええこと
忘れたらあかんこと
ほいなら忘れなあかんこと

個人の時間と歴史の時間がシンクロしたら映画になったりする
手紙は昨日の気持ちが5日後に伝わったりする
知っている風景は結局留まることしかできない風景だったりする
客体(他人)は結局自分のなかにしかいなかったりする

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morandi still

マームとジプシー
の時間の反復性はいつも疑問系なのだ
終わらない時間の内在と、
死への注視

風○○●

風が吹く作品をつくりました
でも本当は吹いてほしくなんかないんです



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アンデパンダン9/19まで

青い花

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プー生活のなかでうっかりはまってしまったのが
深夜アニメの無料動画いっきみである
http://www.aoihana.tv/

まじょまぎはもちろん、放浪息子もあの花もよかったけど
ぎゅんときてしまったのがこの「青い花」である

舞台は鎌倉にあるお嬢様学校の女子校と進学校の女子校
よく見知った麗しき風景に青くって苦いガールズラブ
空気公団のオープニング曲
こりゃあダヴィンチに特集くまれちゃうのも分りますよー

ハチクロとかとは全然違う学園ドラマの錯綜と憧憬があった
志村貴子は、放浪息子もよかったけど、女子としてはこっちのがやっぱいい
魚喃 キリコの「blue」とかとテーマ的にはかぶるんだろうけど
こっちは異性のキャラクターがでてくるからよりリアルだと思った
あーちゃんは少し子供っぽいけど、15歳なんてそんなもんだよと思う
そして、わたしの初恋もふみちゃんみたいなもんだった

まだ漫画は連載中らしいので買ってしまうだろうな、、お金ないのに








メメメメメントモリ

2011.03.11日本列島が大きく揺れました
テレビ、新聞、ネット、巷の会話にまで、震災後のイメージが付き纏う。

わたしは、会社で震災にあい、停留する東京で親戚の家に御世話になり
楽しみだった観劇も、同窓会も、行われるはずがなく、
その日を境に一週間くらい家から出られなくなった。
その故は物理的足止めと有休消化と意外にも安静で強かな気持ちだっただろうか

さてそんな一週間を経て、自分の中のものも余震とともに揺れていた。
ぼやけた心情を抱えて出社して、いつもに増して空っぽな労働が沁みてきた。
節電モード、消費の低迷、自粛、原発問題、離れ行く関係、どれをとっても不可抗力だった。

いつも以上に不可抗力、いつも以上にぼやける視界、
いつも以上にくっきりする地層、曝される燃料棒
気づいたら社長に叱咤されていて、はたと目が覚めた。
いつも以上に自己中で、でも正直だった自分。

そして悟った、世界は変わる、変わらなくちゃおかしいって
何もしなくても世界は変わるかって変わるわけがない

高円寺の原発デモに参加してみた、傍観もしてみた
偶然友達に会った。
3ヶ月前に退職したその子と、その子の友達も退職したばかりの25歳
歩ける足、挙る手、叫べる声、民主主義の権利
どこかに届いたかは分からない、仕事と同じで暖簾に腕押しだった。


ヒッッチコック「知りすぎていた男」The Man Who Knew Too Much



ミンハンセン=ラブ「あの夏の子供たち」The father of my chirdren



と、ここまで記したのが5/9
そして今は6/21ずいぶんと停留させたもんだ
多分メモ程度に書いて、途中で力つきたのでしょう。
先日遠方の友人からブログみてるよとメールをもらって更新しなくちゃと躍起した。

さて、話を戻して
ケセラセラ挿入歌のこの映画2作品

前者は誘拐されたこどもにいつも歌いかけていた歌、
最後子供はこの歌のおかげで両親のもとに戻ってくる
後者は自殺した家族へのやるせなさと
それども進まなくちゃいけない家族の激励歌としてエンドロールに流れる

わたしは後者の映画を深夜観た翌日に同じような境遇に立ち会ってしまった
友人の夫の若き死、近くにいたものと遠くにいたものの差、家族の悲しみ
これに立ち会って思うことは
3.11後の世界のことしか語られない気持ち悪さ、


私たちがいる世界には絶対的な時間差がある。
それは震災後に際立ったのかもしれないけど、
そんなのずっと前から言及されていて、
復興支援や3.11後のなんちゃらに回収される必要はないいんだよって
いまそれに便乗したらまたきっとどっかの企業の
マーケティングに加担したり傀儡になっちゃうよ

だからケセラセラでいいんじゃないかな
ひとりひとりケセラセラ


でも原発はケセラセラではいかない
自分たちが政治に無関心だったことの現れ
被害者意識ではなく加害者意識としてNOっていわなくちゃいけない
そんな気がしてるここ最近










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